2008年
07月
09日
(水)
21:43 |
編集
![]() | 誰も知らない (2005/03/11) 柳楽優弥 商品詳細を見る |
この映画は切ない。
この切なさはどこからくるのだろう?
この映画を見て
例えば無責任な母親をなじる事はできる。
でも、それはテレビのワイドショーがやることであって
この映画の意味からは程遠い。。。
あの無防備で無邪気な母子の姿に
誰が憎しみを抱けるというのだろう。
母子を<捨てた>父親達の姿も
非難するには弱々し過ぎる。
誰もがちょっとした「幸せ」を求めて
ささやかな人生を過しているだけなのだ。
その大人たちのささやかな人生が織り成す
ささやかな網目からもこぼれ落ちてしまう、
もっとか弱く小さな子供たちの世界。
それは切ない。
子供たちはあの階段を上るように成長して
ささやかな人生(外の世界)に合流していくものなのに
そのほんのわずかな望みがかなえられる事はない。
子供たちが外に出ることは許されないし
学校に行けない明は、友達の輪からもはじき飛ばされる。
大人になりたかった京子の手からマニュキアはすべり落ち
カップラーメンの小さな花壇からも成長の種は失われる。
彼らには背伸びをすることさえ許されない。
そして一番小さな命は
背伸びをすることで死の罰を受ける。
大人たちのささやかな幸せが
大きな塊になったものが羽田の飛行機である。
強靭で巨大で天高く飛翔していくそれは
置き去りにされた子供たちを爆音の中にさらに置き去りにする。
もう二度と芽吹く事無いゆきの小さな亡骸は飛行機から認められることはない。
置き去りにされた子供たちには天国へ赴く手立ても無い。
<誰も知らない>小さな子供たちの世界は
ゆきを失い、紗希を迎える。
そしてまた誰かの小さな命が失われ、
また外の世界からこぼれ落ちた誰かが
そこに加わるのだろう。
見捨てられた子供たちの物語が終る事はない。
それが切ないのである。
地球上で最も多くの富を集めた都市の一隅で
「誰も知らない」物語は進み続け
その物語を終らせる術もまた「誰も知らない」のである。
だからこの映画は
終った後もずっと切ないのである。
紗希が差し出す1万円札を
明が払いのけるシーンも切ない。
この少し前に明の声変わりのシーンがある。
明の肉体が子供から大人への移行を示すところ。
紗希のお金は援助交際によるもので
「一緒にカラオケ歌っただけ」のものなのだが
これも大人の世界を示している。
それは子供たちを置いていった母けい子の姿とも重なる。
お金を払いのける明の行為は
彼の潔癖さを示すと共に
大人への、そして母への拒否を示す。
しかし、本当は拒絶されているのは
明たちの方なのだ。
(アルバイトは16歳からなの…)
肉体は自然に大人になっていくのに
社会は彼らを認めない。
それが切ない。
そしてさらに切ないのは
妹たちのために
明がそのなけなしのプライドを捨ててしまうところである。
けい子に電話をし
万引きをして
拒絶したお金を受取る。。。
「ゆきに飛行機を見せてやりたい」ために。
しかもそれらはすべて手遅れ…
しかしそこから
明が子供としてのプライドを捨て大人になっていくのだと
最後に思えるかといえば
物語はその逆を示唆する。
外の世界にいたはずの紗希が
明たちの閉じた世界に合流してしまう。
その先にあるのは
純粋ではあるが犯罪と物乞いで
命を繋いでいくしかないであろう子供たちの未来である。
それが
>氷のように枯れた瞳で
>僕は大きくなっていく
>だれもよせつけられない
>異臭を放った宝石
である。
…だから切ない。
重ねられる手が切ない。
カップ麺の小さな植木鉢に
ゆきが名前を書くシーンがある。
その手には明の手が重ねられ「ゆき」という名前が記される。
これは兄妹の共同作業であり
兄が妹の成長を見守る作業である。
大きな手は小さな手を助ける。
それを助ける事で明の手もまた成長する。
その明の手には野球の監督の手が重ねられ
グラウンドを駆け回る明の姿は次の成長を予感させる。
しかし、それは仮の姿、そこにいない子の代理に過ぎなかった。
それは偽物の手
明ではない誰かの手に重ねられるはずの手だった。
そして場面は一転し
<本当の姿>に戻る。
椅子に乗ってさらに伸びようとしたゆきの成長は
突然停止する。
もう何も掴めなくなった小さく冷たい手。
それは切ない。
<動かなくなった>動かしようのない現実。
重ねる手を失った明の手は
支えをなくして、ただ闇の中で震えるしかない。
その上に重ねられる紗希の手。
それもまた切ない。
紗希を加えてまた4人になり
その手がどんなに強く温かく握り合おうとも
それは彼らの閉鎖した世界を
さらに強く閉じてしまうばかりなのだ。
それが切ない。
電気という
外とのつながりが切れた後で
灯されるロウソクの灯りは温かく、そして儚い。
そこはライフラインを断たれた小さなスラムだ。
「四人で一緒に暮らせなくなるから…」
そのつぶやきの中の小さな世界。
手をつなぎ合って、内向きにわずかな灯火に頼るしかない子供たち。
彼らを外の世界とつなぐ手は切れたまま
最後まで現れることはない。
是枝監督は
その手がけてきた作品において
この子供たちのような
社会の周辺や異端にあるものに寄り添い
それを掬い上げようとしてきたのではないだろうか。
掬い上げられたものは
周辺から中心に置かれ
人々の前に映し出され
そこで新たな想いを得、別の命を得てきたような気がする
子供たちを救う手は
最後まで現れなかったけれど
その物語を掬い上げる手が
最初にあった。
「背、伸びたんだね」
京子のその言葉は切ない。
もうそれ以上ゆきの背が伸びる事は無いのだから。
引っ越して来た時
そのスーツケースには
はち切れんばかりの茂の元気が詰まっていた。
外に出たいと叫んでいた。
スーツケースは
路上で拾われてきた種子のイメージとも重なる。
その部屋に運ばれてきて
芽を出して成長する(はずだった)種子。
でも不意に壊れる種子。
部屋中をカラフルな絵のジャングルするように
精一杯育っていたはずなのに
クレヨンは小さく削れて尽きてしまった…
本当はそこから飛び出して
そのケースに入りきれないくらいの成長をして
そしてそのケースを持って旅立つはずだったのに…
旅立ちは彼らを置き去りにして
彼らの頭上を飛び去る
…羽田は明の父がいなくなった場所であり、明の記憶から消えた場所
…そこは明の憧れの場所でありながら喪失の場所。
もう芽吹く事は無いのに…
かけられる土の音は冷たい。
そして
ゆきの柩になったあのスーツケースが
切ない。
「あたしは幸せになっちゃいけないの!」
幸せの蜃気楼を追い続けるけい子
彼女の「幸せ」はどこまでも逃げ続ける。
今度こそ、今度こそ、今度こそ…
彼女が求めているものは
最初から幸せの影でしかない。
消費し、消費されるだけの
そして消耗していくだけの「恋愛」
つかの間の恋愛の先で、家族は廃墟になる。
「あたしは幸せになっちゃいけないの!」
その言葉は
カード破産に陥りそうなもう一人の「彼女」のものでもあるのだろう。
それらの「幸せ」は消費と同じ意味である。
最初から満たされてはならないものなのである。
消費が途切れたところで
車座に閉じる「家族」が始まる。
母の衣服の詰まったクローゼットに立てこもる京子
その中には懐かしさが詰まっていて
同時に希望がある。
彼女はそこを愛しみ、そこでもがき、そこで抵抗する。
彼女は母の服を抱きしめながら
そこに母がいない事を確かめる。
お年玉の袋の文字を見つめて
そこに母がいない事を確かめるように…
拭われた血のようなマニュキュアの跡をなぞりながら
そこに母がいない事を確かめるように…
そして彼女は思い出の呪縛を越えなければならない。
そこから出て母の血を継がなければならない。
それは彼女一人の戦いである。
彼女はまた何度もその中へ帰るだろう。
クローゼットは
やがて京子を一人の女性として羽ばたかせるための
繭でもあるのだろうから。
この映画は
実際に起きた事件を手がかりに作られているので
一応「実録モノ」と言えるのだろう。
事実を虚構で作り直しているということになるのだが
実はその先にもうひとつの「実録」がある
それは1年間の撮影の中での子供たちの
目を見張る<成長>である。
成長が物語と並行して進むことで
映画に独特のリアリティや立体感を与えている。
それはこの映画の際立った特徴であり
他の映画では感じる事のできない大きな魅力である
ここには
子供たちの実話/映画という虚構/子供たちの実録
という3重の危ういバランスがある。
物語的整合性の破綻とホームビデオのだらしなさを
際どく潜り抜けるアクロバチックともいえる映画作り。
それはドキュメンタリーを撮ってきた監督の
鋭い勘と大胆な賭けの成果でもあるのだろう。
そしてその成功は
物語を拾い上げた監督の
その手からさえあふれ出すほどのものでもあったろう。
誰も知らない。監督さえ知らなかったもの
予測を超えた輝きを放った子供たちの成長の軌跡。
それは破滅に向かうしかない物語の「切なさ」さえ越えて
あるいは物語の進行を裏切りさえして
見る者を感動させてしまう。
2008年
07月
07日
(月)
17:22 |
編集
![]() | 国家の退場―グローバル経済の新しい主役たち (1998/11) スーザン・ストレンジ桜井 公人 商品詳細を見る |
出版社が岩波だからだろうか、翻訳が少し硬く感じる。
内容からすると東洋経済か、日本経済新聞社向きか…
世界は政治だけでも経済だけでも語れない。
それらの複合的ダイナミズムであるという視点から
国家の枠を超えて巨大化する組織(企業、NGO、非合法組織など)について
述べられている。
その中でも金融の問題は現時点で最大の問題となっているが
その金融は合法、非合法の組織活動が積み上げてきたものの動きでもある
国家の活動からはみ出した組織の動きが
国家と国境を超えて大きくなり
それによって国家や国際関係が押し潰されそうになっているのが
現在の世界の状況だ。
この本が出版されてから10年が経つが
状況はより危機的になっている。
イタリアのマフィアはゴミ問題を通じて
ついに世界中にダイオキシンを輸出するにまで至り
権威の象徴であったアメリカの格付け機関は暴走して
信用を失墜してしまった。
気になるのはアメリカで言われる株主や資本家の<圧力>である
その圧力があるために企業や権威ある組織が道を踏み外すのだという
それほどの圧力とはどんなものなのだろう
そこには非合法組織の力も加わっているのではないだろうか…
その力が大きくなり過ぎた故の、今回の米経済の破綻なのではないのだろうか
日本でもバブルの頃はアンダーグラウンドな組織は大活躍だったし…
お金に色は無いのであるからどんな勢力が
それをパワーに変えているかを判断する事は困難だ。
気になったところ…
参考書:
『国家と市場』(邦訳『国際政治経済学入門』1988 ストレンジ)
公共財としての国家の必要性は、端的に言って、発達した市場経済の出現とともに生まれた。近代ナショナリズムは、しばしば実在のものと想定されるが、多くの部分は近代資本主義の産物である。
「多国籍企業」…1960年代 IBM広報部によってつくられた言葉
アメリカ企業であることを隠すため
第一に社会活動としての政治の諸限界
第二に社会におけるパワーの性質と源泉
第三に市場経済における権威の必要性と不可分性
第四に国際社会のアナーキー的性格と、国際社会における唯一のアクターとしての合理的なふるまい
第二次大戦後:領土の喪失は国家の貧困化、もしくは弱体化を意味しなかった
(日本とドイツ)
革新から生まれる独占的レントがその競争相手によって縮小すると、その企業はその製品をまだ競争が少ないか競争のない市場へと輸出しはじめる
1930年代:
世界恐慌:イギリスはヘゲモン(覇権国)として行動することができず、
アメリカはヘゲモンとして行動する意思がなかったため、
世界経済全体が危機に陥った
(キンドルバーガー)
国家間におけるパワーの非対称性の拡大と、さらにパワーの不在ないしは衰退が世界市場の死活的な諸側面にまで及んでいる
南アフリカ:
雪だるまを最初につき動かしたのは、米銀の国内株主が脅威を感じてとった行動
金融的独立性という見せかけが、中小規模国家の国民政府にとってはもはや
まともに維持されないときにさえ、それら政府はなお自立性の幻想にしがみついて
自らの銀行券を印刷し、コインを発行するだろう
国家から市場へのシフトが超国家企業を実際に政治上のプレーヤーに変えた
世界経済で20世紀後半に生産され追加された富の1/3しか物質的な財の追加に向けられていない。1/3は余暇に、1/3は教育と医療に(ドラッカー)
ヨーロッパ:
1980、90年代 「ナショナル・チャンピオン企業」への支援を止めた
重要な一国のインフレーションは容易に他国に拡散しうる
1970年代のアメリカのインフレは日本やドイツ以外にすべて拡散
アメリカ:
1981-82年のヴォルカー=レーガンによるインフレ阻止
→世界デフレと不況を世界に押しつけた
世界市場を存立させる基礎になるグローバルな安全保障構造
小型武器から核物質まで有効な管理下におかれたことがない
グローバル化の下での相互依存という決まり文句を超え
「リスクの創出が信頼の開発を上回った」
国家に対するライバルないし反権力:
イタリア:マフィア(コーザ・ノストラ)
中国:三合会(黒社会)
コロンビア:麻薬カルテル
日本:ヤクザ
旧ソ連:数千のミニ・マフィア
国家に承認された権威:
保険、会計
1960年代までシチリア・マフィアは選挙で長を選んでいた
山口組シンジケート:1980年代シェア11%→92年シェア40%
「パクス・マフィオサ(マフィアによる平和)」(クレア・スターリング)
国家からなる「国際社会」と同様に、何がしかの無政府的な「国際社会」は存在する
過去20年間にヘロイン市場は20倍、コカイン市場は150倍
1991-94年 中国からアメリカへの不法入国は25000人
人身売買的行為による三合会の利益は25億ドル
1980年代 市場はマフィアに国民市場経済と社会の境界線を乗り越える機会を与えた
保険ビジネス:
市場経済が発達し、より複雑で大規模になればなるほど、リスクもそれだけ増大し、直接にまた間接に、リスクの影響を被る人々の数も増える。人々の多くは、リスクが増大していることを意識することさえしない
事業が成功するか失敗するかは予測不能である。
しかし、ナイトの観察によれば、資本主義システムのほとんどの企業化は
希望と楽観主義でその精神が満たされている。
企業家は、他者が失敗しようとも、自分自身は成功すと信じている
資本主義システムを維持しているのは、この楽観主義である
6大監査法人(ビッグ・シックス)
イギリスの上位100社中96社
アメリカの上位500社仲494社の監査
アングロ・サクソンの伝統:
政府は間接統治を選好する
会計原則が、明晰さと整合性よりは、
儀式性と魔術に関連しているものであると、
人々が気づいたならば、
会計という職業や、彼らが作成する財務諸表に対する信頼は全面的に失われる
(Perks 1993)
70年代のインフレを背景に「創造的会計」が生まれた
→経営目的にかなう財務諸表を作成する
過去にその存在が知られている電機、化学、合成繊維、アルミニウムといった、主要製造業における私的保護主義カルテルが「地価に潜り」見えにくくなった
カルテル:
実質的に「公共に対する陰謀」である。政治学的に言えば、規制者が目をふさぎ、不活発そして無能であるために、そういったカルテルは「体制内の体制」を形成している
権威の独立した行使、従属した行使いずれにおいても国際機構が本質的に自己システム保存的だということになるに違いない。加盟国どうしが相互承認しあう仲良しクラブとして、その政治的活動は政府の権威を強化するのに役立っている。また世界経済においては、国際金融、国際貿易や国際投資のいずれについても、市場レジームの正当性を拡大し強化することに役立っている
ブンデスバンクの先導に他国が常に従う、事実上のドイツ・マルク圏の出現
(Tsoukalis 1993)
「小規模の共同体予算と、独自に決定される大規模な各国予算という組合せから導かれる結論は、財政強調がなければ、加盟国の決定がもたらす偶然の結果こそがEMUのグローバル財政政策だということになるだろう。共同体レベルでのマクロ経済的な 財政政策は単に存在しないだろうということである」
(ツォカリス 1991)
片目をふさいだ社会科学:
市場経済と政治の両方を見る
だれまたは何に変化の責任があるのか
技術:市場:政治
変化は国家間のパワー・バランスのシフトの結果として生じたのではない。
市場、技術と政治という三者モデルだけが、国際機構や国民経済向けの国内政策と市場における企業間競争と両者に見られる変化を説明できるのである
冷戦期の大国間バランスの終焉に、大国と小国間のパワーの非対称性の増大が付け加わると、その意味するのは、地域間戦争、内戦や権威の崩壊のいずれかによって生命と財産に対する危険性が実質的に高まるという、アラン・ミンクが「グレイ・ゾーン」と呼んだものの成長である
世界市場経済が国家の権威を追い越した
政治的圧力と経済的変化の下にある市場経済において、貨幣と信用の管理は、貿易システムよりはるかに脆弱な急所なのである
歴史的経験は、信用創出とマネー・サプライの拡大に対して思慮深い管理権を行使する必要を示しているが、それを行使する世界中央銀行は存在していない
もし金融市場のパワーが、各国中央銀行によって行使されてきたような対抗力によってバランスをとられなければ、権威の並存する方向へのこの変化は実際、深刻な事態である。
権威のシフトしている非国家機関のうち、一つとして民主的に統合されているものはない。超国家的な経済外交の新しいプレーヤーである企業は、民主制ではなく、階層制である
「ピノキオ問題」
一人一人を国民国家に縛りつける糸
操り人形から本物の少年へ
導く糸はもはや存在しない
どの権威を尊重し、どの権威に挑戦し抵抗するのか、自分で決断しなければならない
冷戦の終焉とともに、そして市場経済の勝利とともに
絶対性の新たな不在が生まれた。
多面的で拡散した権威の世界にあって、私たちそれぞれがピノキオ問題を共有している。個人の良心だけが唯一の導きの糸なのである
2008年
07月
04日
(金)
14:40 |
編集
アジア三国志…
訳者としては
もしかしたらとても気に入っているのかもしれないこのタイトル
読者としてはビミョーに感じる(笑
血湧き、肉踊る物語というわけでもないから…
内容としては
各国の経済、歴史問題、領土、軍などに
幅広い視点で検討されている。
気になったところ…
1820年には中国とインドだけで世界の生産の半分を占めていた
「雁行形態論」赤松要 1930年発表 1961年1962年復活
中国経済の異常
投資と貯蓄の割合が高い
経常収支の黒字がGDPの10%に達している
貿易のGDPに占める割合が65%ないし70%に達している
海外に巨額の投資を行いつつ1兆ドル以上の外貨準備がある
→それらは変化の必要の兆し:変化しなければ日本の金融バブルの二の舞
ダニエル・ベル→現在北京の中国法政大学に
中国には「民主主義」という言葉に重みが無い
胡錦涛「国民の秩序ある政治参加を拡大し、我々の民主主義を完成するべきである」
→北朝鮮も東ドイツも「民主主義」
マッキンゼー
2015中国の都市人口は二億八千万人
「ミドルクラス」は数千万人規模から数億人規模に
1980年代半ばから2000年にかけて
絶対的貧困の率が上昇しているのは
OECD加盟国の中では日本だけ
…えっ!そうだったの
2007年9月
中国で開催された女子サッカー・ワールド・カップの会場で
日本チームは、英語と中国語で「ありがとう中国」と書いた幕を掲げたが
試合中はブーイングを受けつづけていた。
政治家が何を望もうが、中国の世論は日本を敵視し、ナショナリストになっている
世界銀行は「インドは他の国と比べて、所得の不公平がすくない社会である」
としている
シン博士(首相)は、不平等が拡大しない限り、インドの現況も改善されないことを承知している
インドの貿易障壁は中国より大きく、メーカーは最安値のインプットの利用を阻まれていた
インドには法の支配という美点があるといいはやされているが、それはこの過度の規制と表裏一体であり、じつは弱みなのだ
インドで英語をしゃべれるのは9% 1億人超か
…割合で言えばたったそれだけ?、絶対数ならそんなにも!という数字
『日本 危うい超大国』(邦訳『人は城、人は石垣』)フランク・ギブニー著 1970年代
…どんな本か、ちょっと見てみたい
中国のエネルギー消費と二酸化炭素などによる汚染が増えているのは、経済が成長しているからではない。中国のエネルギー消費と温暖化ガスの排出は、GDPの伸びをしのいでいる
1984年 インド マーディヤ・プランデージュ州ボーパールで
アメリカのユニオン・カーバイドの子会社の殺虫剤工場から
有毒ガス流出事故
3800人以上が即死、その後死者2万人、後遺症12万人
(チェルノブイリを上回る惨事)
中国とインドの発展が地球の資源を使い尽くすのではないかという不安は
あっさりと斥けても平気
中国の国有企業は、欧米の企業が二の足を踏むような危険地帯での
探鉱と鉱山建設に意欲を示している
(アフガニスタンの銅鉱床 30億ドル)
アフマド・ザキ・ヤマニ(1970年代のアラビアの石油相)の言葉
「石器時代が終ったのは石がなくなったからではなかったように、
石油の時代の終わりは石油がなくならなくても訪れる」
日本の細菌兵器開発の731部隊の建物は実用一点張りの雰囲気で
「邪悪の凡庸」(ハンナ・アレントのアウシュビッツ評)を思わせる
20世紀初頭から1930年代までハルビンはユダヤ人の大規模な入植地だった
1970年代の富の移転の時は
生産国のカネが銀行に収まったままであったが
今回はすばやく投資に回されている
輸入した航空機の消耗品や部品の入手が困難になった場合を想定して
国産航空機の開発に投資
…日本のMRJにもこの動機があるのか
「人生の90%は顔見せだ」(ウッディ・アレン)
訳者としては
もしかしたらとても気に入っているのかもしれないこのタイトル
読者としてはビミョーに感じる(笑
血湧き、肉踊る物語というわけでもないから…
内容としては
各国の経済、歴史問題、領土、軍などに
幅広い視点で検討されている。
気になったところ…
1820年には中国とインドだけで世界の生産の半分を占めていた
「雁行形態論」赤松要 1930年発表 1961年1962年復活
中国経済の異常
投資と貯蓄の割合が高い
経常収支の黒字がGDPの10%に達している
貿易のGDPに占める割合が65%ないし70%に達している
海外に巨額の投資を行いつつ1兆ドル以上の外貨準備がある
→それらは変化の必要の兆し:変化しなければ日本の金融バブルの二の舞
ダニエル・ベル→現在北京の中国法政大学に
中国には「民主主義」という言葉に重みが無い
胡錦涛「国民の秩序ある政治参加を拡大し、我々の民主主義を完成するべきである」
→北朝鮮も東ドイツも「民主主義」
マッキンゼー
2015中国の都市人口は二億八千万人
「ミドルクラス」は数千万人規模から数億人規模に
1980年代半ばから2000年にかけて
絶対的貧困の率が上昇しているのは
OECD加盟国の中では日本だけ
…えっ!そうだったの
2007年9月
中国で開催された女子サッカー・ワールド・カップの会場で
日本チームは、英語と中国語で「ありがとう中国」と書いた幕を掲げたが
試合中はブーイングを受けつづけていた。
政治家が何を望もうが、中国の世論は日本を敵視し、ナショナリストになっている
世界銀行は「インドは他の国と比べて、所得の不公平がすくない社会である」
としている
シン博士(首相)は、不平等が拡大しない限り、インドの現況も改善されないことを承知している
インドの貿易障壁は中国より大きく、メーカーは最安値のインプットの利用を阻まれていた
インドには法の支配という美点があるといいはやされているが、それはこの過度の規制と表裏一体であり、じつは弱みなのだ
インドで英語をしゃべれるのは9% 1億人超か
…割合で言えばたったそれだけ?、絶対数ならそんなにも!という数字
『日本 危うい超大国』(邦訳『人は城、人は石垣』)フランク・ギブニー著 1970年代
…どんな本か、ちょっと見てみたい
中国のエネルギー消費と二酸化炭素などによる汚染が増えているのは、経済が成長しているからではない。中国のエネルギー消費と温暖化ガスの排出は、GDPの伸びをしのいでいる
1984年 インド マーディヤ・プランデージュ州ボーパールで
アメリカのユニオン・カーバイドの子会社の殺虫剤工場から
有毒ガス流出事故
3800人以上が即死、その後死者2万人、後遺症12万人
(チェルノブイリを上回る惨事)
中国とインドの発展が地球の資源を使い尽くすのではないかという不安は
あっさりと斥けても平気
中国の国有企業は、欧米の企業が二の足を踏むような危険地帯での
探鉱と鉱山建設に意欲を示している
(アフガニスタンの銅鉱床 30億ドル)
アフマド・ザキ・ヤマニ(1970年代のアラビアの石油相)の言葉
「石器時代が終ったのは石がなくなったからではなかったように、
石油の時代の終わりは石油がなくならなくても訪れる」
日本の細菌兵器開発の731部隊の建物は実用一点張りの雰囲気で
「邪悪の凡庸」(ハンナ・アレントのアウシュビッツ評)を思わせる
20世紀初頭から1930年代までハルビンはユダヤ人の大規模な入植地だった
1970年代の富の移転の時は
生産国のカネが銀行に収まったままであったが
今回はすばやく投資に回されている
輸入した航空機の消耗品や部品の入手が困難になった場合を想定して
国産航空機の開発に投資
…日本のMRJにもこの動機があるのか
「人生の90%は顔見せだ」(ウッディ・アレン)
![]() | アジア三国志 (2008/06/06) ビル エモット 商品詳細を見る |
home
...







